浴室のカビ落としに、冊子の埃取り。キッチンの油取りに、床雑巾。
今日は一日中家事に明け暮れた。
無音で掃除もなんだし、FMは深夜で無い限りまともな音楽がかからない。また長時間DJの声を聞かされるのも五月蠅くて・・・、そんな日はメセニーを聴く事が多いです。タイトル曲がしっとりしていて耳障りも良好。メセニーはソロでもグループでも作品毎に驚く事も無く、逆に落胆する事も無いので、何も考えたくない時や、家事を淡々とこなす時など、BGMとしては安心して流しておけます。
地表に腹を擦ることになろうが、天に昇り着き我を失おうが、生涯変わらぬ確信、ただ何らかの形で音と戯(たわむ)れる、ただそれだけの繰り返し。
今部屋ではアモン・デュールの『Airs on a Shoestring (Best of...)』の3曲目に収録されている「One Moments Anger is Two Pints of Blood」が流れている。 全体的に決して明るいトーンでは無い12分半に及ぶこの曲は僕にとってとても重要なウェイトを占めている。 その理由を挙げれば切りが無いのだが否定的な見解から挙げると、 まず僕は俗に言うディストーション効かったギターの音色があまり好きではない。 つまりその手法があまりにも安易な気がしてならないのだ。 今日ギターを操る諸子はその手の音はチャーリー・クリスチャンやB.B・キング、ジミヘン、そしてクラプトンなどで極みに達している事に気づいていながら、 いや、気付いているが故に、当たり前の音として浸透仕切っているが故に、安易にその方法に身を任せるしか無いのかもしれない。 しかし、それはとても危険な事である。なぜならそこで一つのクリエーションを破棄しているに他ならないからだ。 新しい曲であれ、新しい音であれ、某かを創造しようとするのであれば、本来そのディストーション・サウンドさえ根本から見直して行くべきではないのか?