2006年10月4日

Amon Duul [Airs On A Shoestring]

Amon Duul [Airs On A Shoestring]今部屋ではアモン・デュールの『Airs on a Shoestring (Best of...)』の3曲目に収録されている「One Moments Anger is Two Pints of Blood」が流れている。 全体的に決して明るいトーンでは無い12分半に及ぶこの曲は僕にとってとても重要なウェイトを占めている。 その理由を挙げれば切りが無いのだが否定的な見解から挙げると、 まず僕は俗に言うディストーション効かったギターの音色があまり好きではない。 つまりその手法があまりにも安易な気がしてならないのだ。 今日ギターを操る諸子はその手の音はチャーリー・クリスチャンやB.B・キング、ジミヘン、そしてクラプトンなどで極みに達している事に気づいていながら、 いや、気付いているが故に、当たり前の音として浸透仕切っているが故に、安易にその方法に身を任せるしか無いのかもしれない。 しかし、それはとても危険な事である。なぜならそこで一つのクリエーションを破棄しているに他ならないからだ。 新しい曲であれ、新しい音であれ、某かを創造しようとするのであれば、本来そのディストーション・サウンドさえ根本から見直して行くべきではないのか?

話を戻すと僕がジャーマン・ロックを好むのはそういった点で個々人のモチベーションが高い気がするのだ。 今名のある独ミュージシャンの大凡(おおよそ)が現代音楽から影響を受けたり、もしくはインスパイアされている時点で大きく異極化するのだろうが、 それにしても皆盆百のロック・ミュージシャンで無いことは音を聴けばわかるし、説得力もある。

更に続けると、僕の場合のクリエーションとはそもそも普通にポップスを好む人にも理解が及ぶ範囲で提示しなければ意味が無いと考えている。 散々云われ尽くされた見解であるが、やはり方法論ありきの音楽はもはや音楽ではない。つまり音を楽しむ対象ではないという事だ。 方法論ばかり先行させるインテリ坊ちゃんが奏でる音世界はこと何の説得力も感じないし持っているとも思えない。 また、どう能書きを垂れようが聴き手としては一瞬の解釈で終わってしまう。“一瞬の解釈”とは恐ろしいものでそれに値する音に積極的に参加させる機会を与える。そんなリレーションが延々繰り返されるのである。その大凡は半端な理解であることは云うまでもない。猫も杓子もミュージシャン、一億総音楽家。実に戯けた話である。 心には残らないのだ。 思惑として非常に能動的に音楽に参加させようとしているのかもしれないが、遙かに受動的に成らざるを得ない楽曲形態。 そんなのは波形の研究者としてでも生活していって頂きたい。たまたま音を扱うから音楽を演る、という面は辞めて戴きたい。 結局、方法論やマテリアルなんてご託を並べること自体「音楽」の上ではクソの役にも立ちゃしないのだから。やればいい、やればいいのだ。